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主宰:川津商事株式会社
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尾張徳川第14代藩主徳川慶勝、第19代藩主徳川義親

〈2019年9月20日〉

9月12日、13日放映のNHKプレミアムカフェで立て続けて尾張徳 川藩藩主の話題を取り上げていた。表題の二人である。

まず、第14代徳川慶勝(よしかつ)は現岐阜県海津町にあった高 須藩から養子で尾張藩主になった。NHKのPカフェではこの徳川慶 勝を筆頭に、高須藩出身の3人の弟たちである高須4兄弟(徳川 慶勝、御三卿一橋家当主となる一橋茂栄{ひとつばしもちはる}、 会津藩主であり幕末の京都守護職松平容保{まつだいらかたも り}、桑名藩主であり同じく幕末の京都所司代松平定敬{まつだい らさだあき})を取りあげた。

高須家自体は尾張徳川2代藩主徳川光友の次男が開いた。この徳川 光友の時代、名古屋の建中寺、熱田神宮の整備が進み、自身、柳生 連也斎に学び新陰流6世を名乗るなど武家社会の真っただ中にあ り、尾張徳川の礎をなした世代である。郷土史としてだけでなく昔 の男系歴史お宅にはたまらない話である。

徳川慶勝は島津と親交があり日本の開国軍備に興味を持ち、その影 響か兄弟たちともに幕末の戦乱にかかわっていく。その後京都守護 職に就く弟、会津藩松平容保の庇護を受ける新選組による池田屋 事件に報復した長州藩の禁門の変を機に、幕府の長州征伐が始ま り、その大将として徳川慶勝が幕命により長州征伐をする。京都 守護職会津藩主、京都所司代となった桑名藩主の弟たちが大将就任 に影響したことは容易に想像できる。

その後、勤王派の新政府に敗れた江戸幕府討伐では、逆に徳川慶勝 は東海道、中山道の諸侯を説き伏せて勤王派に鞍替えさせた。これ によって新政府は江戸幕府の無血開城をさせることができたとされ ている。

しかし幕府急進の弟、会津藩主松平容保が東北奥州連合を組織 し、最後まで新政府に対抗し会津戦争で壮絶な戦いをし、更に同じ く弟の桑名藩主松平定敬は海軍副総裁榎本武揚を伴い、旧新選組 の土方歳三などと共にその先の函館戦争まで抵抗した。

だが最終的に二人とも降伏することになる。しかしそこでもその 後、高須家兄の一ツ橋卿らの嘆願で罪を解かれることになる。更に その後新政府下で受勲まで受ける。

そもそも徳川慶勝は、尾張徳川初代藩主の影響で王命を重んじたと ネットなどでは記されている。幕末の幕府VS天皇の関係とはちが い、家康時代は家康の絶対的権力で天皇家とも当然良好な関係にあ り、そのうえでリスペクトの意味で王命を重んじたのではないかと 考えるが、なぜ歴史は、狭い兄弟の仲間内で、ここまで幕府急進派 と、尊王攘夷派に分かれさせたのだろうか。日本の幕末の歴史ロマ ンマニアには垂涎の話である。

以上が前置きである。弊社が取り上げたいのは、19代尾張徳川藩 主徳川義親(よしちか)の話である。越前松平家より養子で尾張 徳川に入り尾張藩主最後の藩主であり、かつ華族制度下で侯爵にな り、幕末から明治維新の社会変遷を生き抜いた証人である。

以前のニュースレターでも取り上げたが、幕末に大名は300藩ほ どあった。しかし20万石以上の大大名は1割満たなかった。一方 5万石以下の小大名が8割であった。

維新後の華族制度は、公家の5摂家(近衛、一条、二条、九条、鷹 司)と薩・長、徳川宗家からなる公爵、前田家など20万石以上 の大大名及び岩倉・三条など上級皇族からなる侯爵、5万石以上 の大名の伯爵、1万石以上の大名の子爵、さらの陪臣あるいは当 時の新興財閥である三菱の岩崎等の男爵からなった。尾張徳川家 藩主徳川義親も侯爵に列せられた。

彼ら華族の財力は藩統治時代の藩領地から上がる収益であった。し かし当時の土地利用は農業である。優良な農地は西日本に限られ、 その多くが天領地、あるいは徳川宗家に独占されていた。優良な農 地を持たない藩は未開地の北海道に土地収益を求めざるを得なかっ た。華族と一口に言ってもその経済格差が大きかった。

実は尾張徳川家の維新当時の資産にも北海道の土地が明記されてい た。NHKのPカフェの映像通り、御三家筆頭の尾張徳川家でありな がら、徳川義親も維新後、旧藩士のために北海道に新たな収益を 求めて開拓に乗り出したのである。史料には藩士80名余りを移住 させたとある。その痕跡は現北海道八雲町に見られる。

八雲町のデジタル史には「この年(明治3年1870年)、名古屋藩で 禄を返上して帰農する士族に対し、手当金を支給、未墾の地を開拓さ せ、身分は無給の士族とした。このことが北海道開拓の動機ともなっ た。」とある。藩が廃止される廃藩置県、一両が1円に換算され、 散髪脱刀令が交付される前の年のことである。徳川義親の先駆け で北海道開拓使の幕開けとなったと言っても良いかもしれない。

藩領地からの農業の生産性は低く、更に北海道に開拓民として入る 余力すらない弱小華族は、土地を担保にした当時の新しい株式投資 に頼らなくては得なかった。当時の第十五国立銀行が、華族の資産 運用先として、日本の鉄道開拓の投資事業の窓口となっていた。こ の十五銀行も徳川慶勝が設立発起人となっている。

しかしこの銀行が、昭和2年の昭和金融恐慌で経営破たんし、その 結果華族の財産もその多くが消耗していった。国立銀行とあるから それなりの保護があったかもしれないが、現実はそれほど甘くなか ったのだろう。これと言った経済基盤もなく、単なる特権階級とし て残った華族制度は、太平洋戦争後の新憲法から消滅した。

NHKのPカフェでは、徳川義親の回顧録として、「天皇にも、華族 にもなにも貢献しなかった華族制度がなくなったのは当たり前 だ。」という再現映像を流した。

対称的にイギリスでは、現在でも貴族制度が残っている。イギリス の国土の30%を貴族が所有していると言われている。しかも実態 は、信託制度あるいは匿名地により、もっと多いとされている。

以前も紹介したがイギリスの貴族が土地利用の生産性向上に努力 し、それが起業家精神をうみ、産業革命に貢献した史実がある。土 地利用の近代化が図られ、高い収益をあげられたイギリスの貴族は 生き残り、土地を持たず収益をあげられなかった日本の華族の多く が姿を消したことになる。

Pカフェでも九州の旧柳川藩主の立花伯爵が、領地を担保に投資を したり売ったりすることなく、屋敷を料亭に転換して生き残った 事例を、生き伸びた華族の成功例をして取り上げている。

結論は「土地を工夫して収益をあげられたセクターは生き残る。」 である。売ったり、担保の金融資本で運用したりするセクターは消 滅した。弊社の格言にしたいくらいだ。金融資産とリアル資産の本 質的な違いがここにあるとおもう。

マネーはリスクを取らない。しかし収益を上げられないセクターか らすぐ逃げ、収益を上げられるセクターに逃避する。不動産等リア ル資産は逃げない。その分リスクを取り価値が大きく変動する。リ スク資産の所以である。不動産の価値をあげられるセクターこそが 自身の価値も挙げることができる。

持ち家の住宅を空き家にしてしまい土地からの収益をあげられない セクターは没落するセクターであるということになる。それを解決 できない国も没落するということになる。

以上

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